節目の年
1989年1月7日、平成の始まりを、私は大学病院の食堂で知った。研修医から大学院生となった年である。ブラウン管テレビのモニターで、小渕恵三官房長官が「新しい元号は『へいせい』であります」と宣言し、誇らしげに、「平成」と墨で書かれた2文字を掲げた。墨汁がまだ乾ききっていないのか、のびやかな平成の文字が、記者達のフラッシュを浴びて、初々しく光を反射していた。当時の総理大臣である竹下登首相は「国の内外にも天地にも平和が達成されるという意味が込められており、これからの新しい時代の元号とするに最もふさわしい」とコメントしたという。昭和の時代は激動の時代であった。忌まわしき戦争があり、荒廃と廃墟の中から人々は立ち上がり、復興の情熱が列島を駆け抜け、高度成長の波が押し寄せ、折しもバブル景気の真っただ中での改元であった。テレビを見ながら、昭和に慣れ親しんだ私には、「平成」の文字はどこかよそよそしく感じられた。子供の頃「昭和の朝に生まれたから、『朝昭』と名付けたの?」自分の名前に由来を母に聞いた。母は笑って答えなかったが、「昭」の一文字をもらったことは確かである。「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠んだのは中村草田男であったが、今、令和の元号となり、「昭和は遠くなりにけり」と嘆息する先生方も多いのではないだろうか?
平成から令和への改元という節目の年に、沖縄県の整形外科にとっても大きな節目を迎えることとなった。琉球大学整形外科教授の退官と新教授就任である。沖縄県の整形外科の医療水準の底上げ、先進技術の向上、後進の育成に尽力された金谷名誉教授の功績を土台として、新教授にはさらなる発展を期待している。新教授の人となりを見聞するにつけ、その期待はますます高まっている。私たち沖縄県臨床整形外科医会も金谷教授であった時と同様に良好な関係が築いていければと思う次第。
さて、わたくし事で強縮だが、今年還暦を迎える。この号が発刊される頃には、60歳になっているだろう。耳順の私は現在将棋にはまっている。指す方ではなく見るほうである。若き天才棋士、藤井聡太のファンなので、彼の将棋の対局はYoutube等で一局、一局チェックしている。藤井聡太棋士が、公式戦50勝をあげた時のインタビューで、「ひとつの節目だとは思います」と言っていたのだが、節目を“ふしめ”とは言わずに“せつもく”と言っていた。 “せつもく”は“ふしめ”に比較すると、やや細かい区切りを意味するようである。「ひとつの節目(せつもく)だとは思います」を解釈すると、「50勝は一つの区切りではあるけれども、これからの長い将棋人生の中でみると、小さなことで、これからもっともっと勝利を積み重ねていきます。」という、淡々として、抑制の効いた自信の表れである。恐るべき高校生棋士である。もっとも、還暦は私にとって「これからの長くない人生」を考えると、大きな“ふしめ”となりそうである。息子と娘が大学を3月に卒業し、10月には開業10年目を迎える。しかし、おおきな“ふしめ”も、ちいさな“せつもく”の積み重ねであるとするならば、1日1日を大切に生きてゆこうと、柄にもなく思いを巡らせている殊勝な私である。
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